M田の日記

M田の日常と1/3の純情な感情を綴る日記

『或る自尊心の形』



どうも。
日を増すごとに体重のメモリが凄まじく増加の一途を辿っております、私です。


暫くまた、更新が滞ってしまっていたけど
ひょんな事から友達と同じ議題で記事を書くことになった。
ので、ブログをまた再開する。

私の友達が不意に自分の中の奥の方にある感情を話してくれた。

話を進めていったところ、その感情の原因は自尊心の低さによるものらしい。
素敵な子なのに、そんなことを考えていたこと自体にも少し驚いた。

向上心の源にもなって良いとは思うけどそれを自分なりに細かく噛み砕いていこうと思う。


自尊心とは、
自分を肯定するきもちのこと。
プライドである。

嫉妬、妬み、嫉み。
そういえばそういった感情はここ最近感じない。
ある種、無。 

かつてはたしかにあった。
そういえば、その感情について考えていたらいつかの私が悩んでいたことを思い出した。
専門学生の時なんかは人に対しての感情がそればっかりだった気がする。
要は斜に構えたような時期だった。

人と比べた。
自分の体型などの容姿から、頭の出来、人間性、とにかくありとあらゆる全てのことを比較して自信をなくしてた。
そうしてくうちに、存在することにすら疑問を抱いた時期もあった。
全てが灰色に見えて淀んだ世界だった。
自信のなさから少しでも隠そうとマスクをした。人の目に付く自分という存在の範囲を少しでも狭めるためだった。
嫉妬の感情に対しては、
元彼と付き合ってた時に時々そうなってた。
私は仲の良い友達とグループ交際をしてた。
その時に、元彼が友達と話してると心の中に暗い感情が宿った。
まるで水の入ったコップに、墨汁を一滴落としたようにじゅわーっと広がって、すぐに周りの水に溶け込むけど微かにモワモワゆらゆら黒が漂った。
そんな自分が嫌だったし必死でかき消した。
友達が言っていた感情を私もたしかに経験している。
妬みも嫉みもした。
かつてはあった。
でも今はそういった感情があまりない。
全くといっていいほどと言ったらそれは嘘になる。
でもほとんどない。

それはきっと、
“人は人、他人は他人”
って考えるようになったからだと思う。

たとえば職場で目上の人から
普通に考えてさとか一般的にさとかいう言い方で説教してきても、
お前の常識を世間の常識と思うなって思っちゃうし。
普通も何もない。
今自分が思ってる普通が誰かの普通と全て一致することなんてないし、趣味も好みも、違うんだし、だからカップルがごまんといる。

誰かにとっての私じゃないし、誰かのための私でもない。
今現在自分の身近にいる人は、私を受け入れてそこに存在してくれてるって思えばいい。
こんな自分だけど、こんな自分だからこそそばにいてくれてるのかもしれなかったら?
こんな自分だからこそ好き好んで同じ刻を過ごしているんだとしたら?

誰かと比較する必要もない。
誰かと争う必要もない。
誰かの真似をする必要もない。

嫌いならどうぞ離れてくれて構わない。
みんな自分の正義の中で生きてるんだから合わないならしょうがないよねって思える。
そう強く思えるのは、今の自分が“今の自分”だったからこその結果だって受け入れてしまえたから。

私は、仕事とか日常生活でもすごくヘマをする。
天然だね、じゃ済まないくらい。
心配されるレベルだったり、ドン引かれるレベルの失敗も今までしてきた。
でも、細心の注意を自分の中で払ってるつもりでもやってしまうし何をどう隠そうとしたって自分は自分なんだ。

要は、“開き直り”と“受け入れ”だ。

バカにしたきゃバカにすればいい。
笑いたきゃ笑えばいい。
逃げても隠れてもこれが自分なんだ。
と、受け入れてしまえばいい。
これが等身大のM田という人間なんだから。
かつては取り繕ってた自分がいたけど、でも
取り繕うからもっと窮屈になって堅苦しい思いをしてたんだろうなぁって思う。

嫉妬しちゃったら“あぁ、今自分…焼きもち妬いてるな、嫉妬しちゃってるんだな”って受け入れちゃえばいい。
それだけ好きなのか…この人のことって思ったり。
それでもモヤモヤしたら、表現してみればいい。
透明な水に黒が一滴落ちたみたいとか。
そういう表現。

向上心は大事だけど
自分を否定するほどまでの感情は捨てていこう。

その友達が話題をくれたおかげで今文章を書いてて改めて気付いたり、確信したりするきっかけをくれた。

素敵なテーマだった。