M田の日記

M田の日常と1/3の純情な感情を綴る日記

『綱吉の令から333』


なんちゅうタイトルをつけた割にはあまり内容のないただ頭の中から浮かんできた惰性と蛇足で言葉を綴り始める。
最終的にどんな文章になっているのかは皆目見当も付かないが、日々のこの押し寄せる訃報の知らせとそこから巻き起こる家庭内での負の連鎖と蔓延している得体の知れない流行り病を前にただ茫漠とした時間だけを家の中でやり過ごすにはあまりに退屈なのでたまには何とも言えない程堅苦しく重苦しい文章を作って遊んでみる。



昨今の報道番組やら政治家やらで取り扱われているニュースを観ながらつくづく思うのはその一つ一つの報道番組の隅々にちらついている人間という下等動物の愚かさだ。

紙切れ如きに付加価値を付けたばかりに国内の民度の低さをこれでもかと露呈せんばかりの金の亡者こと政治家の皆々さまプラスα。
各国で起こる領土問題を筆頭とする論争の数々。
学校、会社、地域、奥様方、組織、様々なカテゴリーの中から発生する謎のカースト制度

こんな事件が巻き起こるのは、やっぱり人間という存在の迷惑極まりない生き物のなし得る技である。

勝手にカーストを付けたが故に生じる人間の無様で醜いマーキング行為(ここでは主に虐め、虐待、様々なハラスメント問題等も指す)の数々。


嘆かわしく、実に無様である。
何のための法律なんだかちっともわからない日本の憲法
そこに書かれてること“だけ”でしか捌けない法廷の方々。

ストレス溜まったからといって我が子を殺める親、逆に親を殺める子供。

見ず知らずの方に、石をぶん投げて殺めたクソDQN(死後)共。
だいたいこのクソDQN共なんてまだ未成年とか言ってるけど19ってもう立派な大人だろ。アソコの毛も生えそろってるしなんならあと1年で成人して全ての責任を請け負う権利を与える人間に、たった数ヶ月〜1年短かったからって未成年の少年らで名前も顔も晒さずにそれでいいのか。

そいつらがやった行為は残虐極まりないのに、何を血迷ってるんだか19歳の“未成年”である。というたったそんな理由だけで涙を飲んだ被害者、故人、遺族がこの国でどれだけいると思ってるのか。
そいつらは、法律で守る義務もないような陰湿で残虐な行為で人を殺めた犯罪者のくせに。
そんな条約のために海の藻屑のように軽んじられ、海底に沈められるようにあしらわれた悲しい事件が星の数ほどありすぎてそんな詳しい数値は定かではないが是非ともバカばっかいってんじゃねぇよと捨て台詞でも吐いてやりたい。


とくに私がはらわたが煮えくり返る思いを毎回するのが、犬やら猫やら動物への虐待。
小さい子やご老人に対しての虐待もそうだが、

弱い立場への虐待。


解せない。
とにかく報道なんかでそんな事件が耳に流れてくると何故か知らないけど全身の毛穴という毛穴が一気に開いて血の気が上がる。
脳味噌の1番太い部分の動脈が脈打ってブチギレそうになる。

やれボウガンでカモやら猫やらを打っただとか。
やれ犬の足を切断しただとか。
やれ犬やら猫やらを虐待して山奥に捨てただとか生き埋めにしただとか。

書いてるだけでも身体中の血が蠢くくらいに何なら私が殺ってやろうかくらいにまでなる。

私の意見的には、そうやって無垢な弱い立場の動物或いは人間を暴行や虐待で身体も心も踏みにじって痛めつけたクソ犯罪者は、
基本的にいうと生きる価値がないと思ってる。でもそんなことを言うと私が非難されそうだからここは100歩譲ってその対象のものに自分がくだした仕打ちをそいつにもやってやればいい。
例えばボウガンで動物の背中とか腹を打った奴は、ボウガンで同じ部分を撃ち抜かれればいい。
ノコギリとかで動物の体を切断した奴もそいつが狙った部位を、同じように切断して同じ苦しみと痛みを味わえばいい。
なんならショック死とか感染症とか起こそうものならそのまま傷口から腐って死ねばいい。
山に捨てたり埋めたりしたゲスも、同じように手足を縛って黒いビニール袋を何重にも重ねて入れて密閉した中で土に埋め込んでやればいい。
それでそいつが放置した日数分、放置してやればいい。その状態で1週間放置したならそいつも同じ状況を作ってやって1週間放置したらやばいい。

首吊りの処刑台が如く、
下の台を外されて宙ぶらりんになってなんらかの理由でヒモが切れたりして助かったならそれはそれで処罰はされたと言うことで生きながらえた奴はそのまま生きててもいいけど
大半は死ぬだろう、ショック死で。

同じ痛みと苦痛を味わってから死ぬなら死ね。

人間と同じく、動物も等しく生きてて、等しく痛覚だってあるし、等しく感情だってある。

どう人生を生きればそんなことが易々と出来る思考回路、精神状態、感情線が生まれるのか。
そんな自分(やってる側は人間なんだからどう考えても人間より体も小さい)よりも弱い存在の生き物に残虐且つ冷酷な仕打ちが出来る下等生物だと思うと自分が人間であることを恥じざるを得ない。


毎回そんなニュースが飛び交ってくるなんて、これは日本に留まったことではなくて世界各国に対して言えるけど、特に酷いのが日本だ。
動物虐待に対しての政府の対策といえば、
ほぼほぼ高確率で器物破損扱いだろう。
動物愛護団体に訴えるとしても動物愛護法で保護法益としているのは動物の命ではなく、“動物が虐げられることを忍びないとする人の精神”だけだ。



この期に及んで法律までも自分(人間サイド)のことしか考えてねぇのか。


綱吉の『生類憐みの令』政策から今年で早333年(めっちゃゾロ目…笑)、
あれは流石にやりすぎではあったし、当時からすれば常軌を逸したようなこの政策に様々な悲しい事件が起きてしまったが心意気としてやりたかった事はすごくわかる。
ただその綱ちゃまが連ねてしまった法がわりと偏りが見えるってだけで政策としては何ならこれからの時代に取り入れていくべきじゃないんかと思う。
改善を何回も重ねる必要はあるけど。


ネットの普及、核家族の増加でなのかわからないが近頃の未成年の苛めには、可愛げがないというかこいつらガチで潰しに掛かってきやがってる感がどうも拭えないような執拗な精神的攻撃、且つ身体的攻撃がよく目立つ。
そういう近頃の若者(実際その行為に及ぶ年齢の幅は様々だが)が増えた背景には、たしかに見落としてしまったものがその中にあるっていうことではないか。
自分の環境下にあるネット、ゲーム、漫画、映画によっての刺激性のある知識を取り入れたら、少なくとも子供なんてのは往々に皆ほとんどは空想の中で遊ぶ。
空想の世界を生きてネットやゲームと現実の境目がわからなくなるのか、その刺激を得る事で実際にやってみたくなってしまう模倣したい欲求の中を彷徨った結果、自らの手で、自らの視界でそれを確かめたくなってしまう。

どうなるかを考える事なく、或いはどうなるか考えには至ってたとしてもそれを無視し、
むしろその対象物の反応を見たいがために自分の欲望のままに動いてしまう1人がいたとしたらもう一貫の終わりだ。
それに面白おかしく加算する者、やられる側になりたくないからと自分の保身のために加算する者、そんな奴らが数名がいたら悲しくもその現象は成り立ってしまう。

実に嘆かわしいが、その背景にはやっぱり少しばかりはこの動物虐待に対しての器物破損扱いが根を張っていると思う。

道徳の授業だけではなく、母親の言い聞かせだけではなく、むしろ何ならその母親さえも飼っていたペットの金魚が死にました。となったとき、子供がその死んでしまった魚を哀れむでも敬うでもなく忍ぶわけでもなく水槽の中に手を突っ込んで遊んでいたとしても「臭い、汚いから早く捨てちゃいなさい」と言いながらビニール袋にぶち込んでゴミに出してしまったりが“普通”とされてしまっているのならば今のこの命の価値の軽視を誘発している幼少期を過ごしてきたことになる。
この一連の動作をいとも簡単にやってのけてしまった親子が実際に過去の人間関係にいた、それを目の当たりにした当時私は小学校の低学年だったが無表情で命を捨ててしまう行為に背筋が凍ったものだ。
しかもそのペットの魚が死んだ理由も、その私より何歳か下のその子が水槽に手を突っこんでぐるぐると追いかけ回して時には尻尾を掴んだりなんかして弄んでいたのが理由だというのに。
当時、その子をそんなことをしたら可哀想だよと軽く宥めることしか出来ず、数週間私がショックを受け後悔しすぎて大好きな魚が半月くらい食べれなくなった。

私の家も幼少期から、金魚やらグッピーやらネオンテトラやらの小さい熱帯魚や犬を飼っていた。
金魚もグッピーネオンテトラも寿命を終えるまで名前をつけて、水槽も綺麗に保ち、ちゃんと責任を持って面倒をみて、その命が尽きたらちゃんと掬い上げて柔らかいガーゼに包み、母に連れられ公園の花壇に穴を掘りその子を入れ土を被せ、わからなくならないように小さな墓標を立ててから、母と一緒に手を合わせたりしたもんだ。
1匹1匹、死ぬごとに。


プラスして私自身の持病のせいもあり病院への入退院が多かったのも手伝って、小さい時から様々な面で“生”と“死”に向き合ってきたつもりではいる。

だからもっと小さく無垢で純朴な幼少期の段階の時に
そういう“命”に対しての尊さを重んじる心を根付けなければいけないんじゃないか。
君とその子は当価値で、君とその魚も当価値だと子供目線で膝をついて理解して問うてあげなければいけないんじゃないか。

私が2カ所のところでバイトを辞めた理由にも直結してくる話なんだが
私自身の覚えの悪さもあり四苦八苦しながらようやく人並みには揃えられて、努力が周りに認められて安泰だったバイトがいくつかあるが、
今までの経験上、それでも尚続けられなかった理由として目の前で繰り広げられる他人が受けているイジメやパワハラがわりと絡んでいることを思い出した。
庇っても庇っても止まないし、助けても助けてもその人は精神も体調も壊して弱っていくしっていうのを今サッと数えるだけでも3〜4件はある。少ないと思うか多いと思うかはひとそれぞれだけど。
そういうのを見せつけられる度、そういう社風に、むしろ人間自体に辟易してしまう。
もちろん、私だってされた側に回ったこともあるがまだ私がされてる方がマシだと思う程、ハタから見ると醜く哀れで救いようのない人間が人間にマーキングを行う行為を見せつけられてるようで何度首謀者とその連中を頭の中で何度暴言で罵倒して何度殴る蹴るの暴行を働いて何度殺したものか。


そう、私もただ行動には移してないだけでその思考を働かせている時点でそっち側(犯罪者)になる可能性はゼロではない。



行きすぎた正義感も又、凶器になり得るのかもしれない。

そう考えると…





なんて人間は弱いんだろう。
なんて人間は醜いんだろう。
なんて人間は汚いなんだろう。
なんて人間は浅ましいんだろう。
なんて人間は単細胞なんだろう。
なんて人間は忌まわしいんだろう。
なんで人間は




生きてるんだろうね

今日も今日とて甘美なる汚ねぇ人間共は
生きてるんだもんな

来世は人間じゃないのがいいな。